いつも不思議なこと。認知的不協和の解消、すなわち、「すっぱいぶどう」について

前から不思議なのですが、私がさまざまな野菜カッターやホットクックのような自動調理器を駆使していますと、ほぼ出てくる反論・批判が

包丁が下手だからそういうものを使うんだろう、料理が下手だからそういうものを使うんだろう

というものです。

ただ、私も伝統的手法の料理は普通にできますし、15年とか20年前は、それしかなかったので、そうしていました。ただ、いまはこういうものを使ったほうが効率的なので、使うだけです。

また、私はどちらかと言うと、こういった野菜カッターやホットクックは、もともと、伝統的な料理手法ができる人の方が、より上手に活用できると思っています。 

なぜなら、もともと自分ができることに対して、それを機械に任せるよりよくやってもらうためにはどうしたらいいかということを考えることができるためです。したがって、マニュアルとか、レシピなどを見なくて済むので効率的です。

それなのに、なぜこのような意見が、すべての人からではありませんが、少数意見ながらでるかと言うことを今朝は考えてみました。

結論から言いますと、

認知的不協和の解消

に尽きるのかと思います。

自分が様々な理由で、

  • 使いたくても使えないもの
  • あるいは使おうとしないもの

に対して、それを使いこなしている人を見ると、その人に何らかの不都合がないと、自分が使わない理由が成り立たないためです。すなわち、自分の状況を正当化するためには、何か相手に不都合を生ませるような事実を想定し、それで留飲を下げるわけです。

これは昔からあって、イソップ童話の

すっぱいぶどう

がその典型ですね。すなわち、

やらないいいわけの正当化

がおきています。

そして、こういうことをなかなかみんなそれをやっている人に面と向かっては注意をしないし、私自身ももちろん、さまざまな場面で、その認知的不協和解消のための正当化的な発言をやっていると思います。

まぁ、いずれにしても、これを気を付けるためには

自分がとっていないリスクをとっている人に対して、そのリスクをとってもいないのに注意・批判をすることをやめる

に尽きるのではないでしょうか? 

私も気を付けます。